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大阪地方裁判所 平成3年(行ウ)108号 判決

原告

亡向井和孝訴訟承継人

向井典子

右訴訟代理人弁護士

松尾直嗣

杉本吉史

阪田健夫

被告

地方公務員災害補償基金

大阪府支部長

山田勇

右訴訟代理人弁護士

今泉純一

主文

一  被告が向井和孝に対して昭和六三年三月三一日付けでした公務外認定処分を取り消す。

二  訴訟費用は被告の負担とする。

事実及び理由

第一  請求

主文同旨

第二  事案の概要

本件は、向井和孝(以下「向井」という。)が、被告に対し、そのり患した腰痛について、地方公務員災害補償法に基づく公務認定を請求したところ、被告が、右腰痛は公務により生じたものではないとして公務外認定処分をしたため、右腰痛が公務により生じたことが明らかであり、右処分が違法であると主張して、その取消しを求め、同人の死亡後原告が同人の訴訟上の地位を承継した事案である。

一  争いのない事実

1  向井の腰痛の発症

(一) 向井(昭和二五年一一月一四日生)は、昭和四九年四月から大阪府立富田林養護学校(以下「本件養護学校」という。)に勤務し、小学部の二年生を担当したが、同年一〇月ころ、腰痛を訴え、その後、昭和五〇年一〇月ころ、腰痛や足のしびれなどの症状を訴えて、同月一四日、大阪市立大学医学部付属病院において「腰痛症、第四、第五腰椎分離症」と診断され、同日から同年一二月一〇日まで休業した。

(二) 向井は、被告に対し、右疾病につき、同月一日付けで公務災害認定請求を行ったところ、被告は、昭和五二年一二月二六日付けで「療養の範囲は、急性症状の消退するまでの間とする。」との限定を付して、公務上の災害に認定した。

(三) 向井は、再び、昭和五九年九月以降、腰痛が起こり、津田整形外科(以下「津田医院」という。)に通院して、同医院の津田耕平医師(以下「津田医師」という。)の治療を受け、昭和六〇年二月から常時コルセットを着用していたが、同年一二月末ころから左足にしびれを感じるようになった。

(四) 向井は、昭和六一年二月一三日、勤務中、階段途中で急に発作を起こした児童を受け止めようとして一緒に倒れた。その後、向井は、同年三月半ばころからじっと座っていられなくなり、痛みも左腰を中心に激しくなった。

(五) 向井は、同年四月二日、勤務中、学生机を持ち上げようとした時、腰部に激痛が起こり、立っていることが困難な状態となり、同月八日から休業した(以下、昭和五九年九月以降のこのような腰痛を「本件腰痛症」という。)。

2  本件処分

向井は、昭和六一年四月一三日、被告に対し、本件腰痛症の発症が公務上の災害であるとして地方公務員災害補償法に基づき公務災害認定請求をしたが、被告は、昭和六三年三月三一日、本件腰痛症の発症が公務に起因するものではないとして公務外認定処分(以下「本件処分」という。)をして向井にその旨通知した。

このため、向井は、地方公務員災害補償基金大阪府支部審査会に対し、本件処分の審査請求をしたが、同審査会は、平成三年八月二九日、右請求を棄却する旨の決定をした。

そこで、向井は、同年一〇月一八日、地方公務員災害補償基金審査会に対し、再審査請求をしたが、同審査会は、平成四年七月八日、右請求を棄却する旨の裁決をした(なお、同審査会の裁決については、乙第五五号証により認定する)。

3  向井の死亡

向井は、平成六年三月二二日死亡した。原告は、向井の配偶者であり、同人の死亡当時、同人と生計を同じくしていた(なお、原告が、向井の死亡当時、同人と生計を同じくしていたことは、弁論の全趣旨により認定する。)。

二  訴訟承継

前判示のように、原告は、向井の配偶者で、同人の死亡当時向井と生計を同じくしており、向井が支給されるべき同法所定の補償でまだ同人に支給しなかったものについて、その支給を求める権利を承継した者であるので(地方公務員災害補償法四四条)、同人の死亡により、原告が、その訴訟上の地位を承継したものと解すべきである(被告は、原告が同法四四条を根拠として、向井の訴訟上の地位を承継することは、特に争わない旨答弁する。)。

三  主たる争点

本件腰痛症の公務起因性

(原告の主張)

本件腰痛症は、向井の基礎疾患である腰椎分離症、分離すべり症が、本件養護学校小学部における過重な公務及び昭和六一年二月一三日の転倒事故、同年四月二日の作業中の急激な腰部への負担により、その自然的経過を超えて著しく増悪したため、発症したものであるので、公務に起因する疾病である。

1 本件腰痛症に公務起因性が認められるためには、本件腰痛症と公務との間に相当因果関係が認められる必要がある。そして、本件腰痛症発症の原因が基礎疾患、公務など複数競合する場合には、公務が有力な原因、又は共働原因となって、本件腰痛症を誘発又は増悪させたことが認められれば、右相当因果関係は、肯定されるべきである。

被告は、このような場合、公務起因性が肯定されるためには、公務が本件腰痛症発症の相対的に有力な原因であることを要すると主張するが、労災補償制度が、使用者の過失の有無を問わず、労働者の業務に関連して発生した被災者及びその遺族の生活破綻からの救済を直接の目的とする制度であって、損害の填補を直接の目的とする制度ではないこと、公務と基礎疾患のような質的に異なる原因について、どれが有力であるかを比較することは不可能であることなどの点からすると、被告の右主張は、失当である。

2 向井の小学部における労働は、加重の負荷を同人の腰部にかけた。

(一) 本件腰痛症発生の直前である昭和五八年度から昭和六一年ころの向井の勤務時間は、午前八時三〇分から午後五時一五分までであり(土曜日は午前一二時三〇分まで)、同人は、放課後も、部会などの会議、研修、教材作りなどに従事し、学校を離れるのは、通常、午後六時過ぎになった。

(二) 同人は、昭和五八年四月小学部への配置後、担任する児童を職員室へ連れて行く行為、排泄と着替えなどの介助、学習や給食の際の個別の児童の監督介助などの際、身長一二〇から一四〇センチメートルの児童と目の高さを同じくしたり、その行動を適切に介助するため、中腰、前かがみなど腰部に負担をかける姿勢を長時間断続的に強いられた。

そのうえ、小学部の児童は、高等部の生徒に比較すると、身辺面で自立していない者が多く、多動性で問題行動としての徘徊も多く、日常生活のパターンが確立していなかったり、対人関係のまずさから突発的な行動に出たり、集団生活に未熟であるなどの問題点があったため、小学部を担当する教員は、担任児童の側を片時も離れずに介助を継続的に行わざるを得ない上、高等部の生徒より教員との間の身長差も大きかった。

そのため、同人は、高等部を担当していた時期に比較して、長時間前記のような腰部に負担をかける姿勢を強いられることになった。

(三) 同人の公務は、他の同僚教員に比較しても、その担任する児童の障害が特に重症であった上、担任児童数が多く、転入生を多く担当し、また、相担任との関係でも負担を受けたなどの点で特に加重であった。

すなわち、同人が、昭和五八年四月から昭和六〇年三月まで担当した小学部の五年生、六年生は、脳性まひ、自閉的傾向、ダウン症、心室中隔欠損症、てんかん、そううつ症、僧帽弁閉鎖不全症、左腎欠損など重い障害を持っており、途中転入した児童もあって、担任児童数が増加した上、右児童も特に重い障害を持っていたため、その指導、介助などのために中腰、前かがみなどの腰部に負担をかける姿勢をとることを特に頻繁に強いられることになった。その上、昭和五九年度に相担任として当初配置された男性教員が二か月で退職し、養護学校の勤務経験のない女性教員が配置され、昭和六〇年には、他の児童に比較しても特に重い障害のある児童が転入したため、向井の負担が一層増大した。

3 向井の本件腰痛症は、腰椎分離症、分離すべり症による下肢の神経根の圧迫に伴う症状及び養護学校の教員に多発している筋・筋膜性腰痛、慢性腰痛が併発したものであるが、これらは、同人の公務により発症し又はその症状が自然的経過を超えて著しく増悪したものである。

(一) 向井の本件腰痛症は、腰椎分離症の分離部に増殖した線維性組織による左第四神経根及び同第五神経根の圧迫による症状であったと認められるところ、腰部への負担の大きい労働がもたらす分離部への機械的ストレスや運動の繰り返しにより、右組織が増殖したものと考えられる。

(二) 同人の本件腰痛症は、脊椎分離すべり症による椎間腔及び脊柱間の狭小化による神経根圧迫から生じた症状であり、これらの症状は、すべり症の進行により増悪するところ、労働による腰部への負荷がすべり症の進行に寄与することは、明らかである。

(三) 同人の本件腰痛症には、労働により腰部へ過重な負荷が加わったため、腰部の筋肉や周辺の靱帯組織が脆弱化し、不安定になって、炎症が発生する筋・筋膜性腰痛も併発していた。

4 労働衛生の立場からは、①当該仕事に就労する以前、腰痛の経験がなく、就労後、初めて腰痛を経験した、②同一職場、職種で同様の腰痛が多発している、③職場での対策、例えば、労働条件や職場環境の改善、休職、職場転換により症状が解消又は軽快したという要件を具備する場合には、公務起因性が肯定されるべきであると考えられているが、本件腰痛症は、右三要件を具備する。

(一) 向井は、昭和四九年四月、本件養護学校に教員として採用されるまで、腰痛症の症状はなく、右就労後、腰痛症を発症したものであり、①の要件を具備する。

(二) 各種の調査によれば、向井と同一職種である養護学校の教員には、同様の腰痛症が多発しており、②の要件を具備する。

(1) 大阪府教育委員会が昭和六一年七月に実施した腰部関節等に関する健康意識調査によれば、現在腰痛がある者の割合が、一般校では22.6パーセントであるのに対し、養護学校などでは36.8パーセントであり、大阪府労災病院整形外科の医師により実施された養護学校教員の腰痛の疫学的調査でも、養護学校においては、高頻度に腰痛患者が発生しており、今後レントゲン所見なども含め詳細な検討をする予定であるとされる。そして、全日本教職員組合の委嘱による腰痛等の全国調査でも、同一学校の事務職に比べて教員の腰痛有訴率は、明らかに高くなっている。また、垰田和史医師による草津養護学校での調査によれば、全体として腰痛患者が多発していること、夏休み後の検診結果で、改善されていることから、生徒に対する教育介助が養護学校教員の腰痛の原因であることが明らかにされている。

(2) 大阪府でも、養護学校教員に腰痛が多発しているという現実を踏まえ、昭和六三年から腰痛予防検診が実施されており、腰痛予防検診実施要領においても、「養護教育諸学校に勤務する教職員の間に多発傾向が見られる腰痛問題に対処するため」と記載されている。

(三) 向井の本件腰痛症は、労働条件や職場環境の改善、休職、職場転換により症状が軽快しており、③の要件も具備する。

(1) 同人の昭和四九年の腰痛は、一学期の終わりころから症状が出始め、夏休みに若干軽快したものの、一〇月の学校行事の間に発症した。

(2) 同人は、昭和五〇年に高等部に移ったが、担当した生徒の一〇名中九名に重度・重複の障害(IQ三五以下)があり、負担が大きく、症状が悪化し、休業したが、その後、体育の指導担当をはずすなどの軽減措置を受けた結果、その後七年間、公務の継続が可能となった。

これは、当初の小学部の負担により腰痛症が回復しないまま、高等部へ移ったため、当初症状の悪化があったが、その後、高等部で負担が軽減された結果、症状が軽快したものというべきである。

(3) 同人は、昭和五八年、再び小学部で、最も重度の障害児を二年間担当したため、本件腰痛症が発症したものである。

5(一) 向井は、昭和六一年二月一三日、階段途中で急に発作を起こした児童を受け止めようとして一緒に倒れ、腰を階段に強打した。その際、向井は、階段の下で約一〇分間ほど立ち上がれないほどであり、その後、同年三月半ばころからじっと座っていられなくなり、痛みも左腰を中心に激しくなった。そして、向井は、同年四月二日、学生机を持ち上げようとした際、腰部に激痛が起こり、立っていることが困難な状態となり、同月八日から休業したものである。

(二) このような経過からすれば、同人の前記のような小学部における長期間にわたる腰部への過重負担により、その基礎疾患が悪化し、右転倒事故及び四月二日の作業中の急激な負担により右基礎疾患が一層悪化し、休業を余儀なくされたものと認められるので、この点からしても、本件腰痛症の公務起因性は肯定されるべきである。

(被告の主張)

向井の本件腰痛症の発症について、同人の公務が関与していなかったとまではいえないものの、右公務が相対的に有力な原因となって本件腰痛症が発症したとはいえないのであるから、右発症と公務との間には、相当因果関係はなく、公務起因性は否定されるべきである。

1 公務起因性が認められるためには、当該公務と当該疾病との間に相当因果関係のあることが必要である。

そして、災害補償制度が、使用者(地方公共団体)が職員をその支配下に置き、使用従属関係の下で公務に従事させるため、その過程で公務に内在する各種の危険が現実化して職員が負傷し又は疾病に罹った場合、使用者が、過失がなくともその危険を負担し、職員の損失を填補するための制度であることからすれば、右補償制度が適用されるには、当該疾病などが当該公務に内在ないし通常随伴する危険の現実化と認められる関係を要するものというべきである。したがって、右相当因果関係の存在が肯定されるためには、当該公務が当該疾病等に対して、他の原因と比較して相対的に有力な原因であることを要すると解すべきである。

2(一) 腰椎分離症や分離すべり症に由来する腰痛症についての公務起因性の認定基準は、災害性の急性発症の場合には存在するが、本件のような慢性発症の場合には存在しない。

(1) 公務起因性に関する認定基準(昭和四八年一一月二六日地基補第五三九号「公務上の災害の認定基準について」)は、重量物を取り扱う業務、腰部に過度の負担を与える不自然な作業姿勢により行う業務その他腰部に過度の負担のかかる業務に従事したために生じた腰痛の公務起因性を肯定する。

(2) そして、昭和五二年二月一四日地基補第六七号「腰痛の公務外認定について」は、災害性の原因による腰痛は、①腰部の負傷又は腰部に負傷を生ぜしめたと考えられる通常の動作とは異なる動作による腰部に対する急激な力の作用が、公務遂行中に突発的な出来事として生じたと明らかに認められるものであること、②腰部に作用した力が腰痛を発症させ、腰痛の既往症を再発させ、又は基礎疾患を著しく増悪させたと医学的に認めるに足りるものであることの二要件を具備し、医学上の療養を必要とするものの公務起因性を肯定する。

また、非災害性の腰痛のうち、腰部に過度の負担のかかる業務に比較的短期間従事する職員に発症した腰痛の発症の機序は、主として筋、筋膜、靱帯などの軟部組織の労作による不均衡による疲労現象から起こるものであるという医学的知見に立って(昭和五二年二月一四日地基補第六八号「「腰痛の公務外認定について」の実施について」)、①おおむね二〇キログラム以上の重量物又は軽重不動の物を繰り返し中腰で取り扱う業務、②腰部にとって極めて不自然又は極めて非生理的な姿勢で毎日数時間程度行う業務、③腰部の伸展を行うことができない同一作業姿勢を長時間にわたり持続して行う業務等腰部に過度の負担のかかる業務におおむね三か月から数年程度従事する職員に発症した腰痛で、当該職員の業務内容、作業態様、作業従事期間及び身体的条件からみて、当該業務に起因して発症したものと認められる療養を要する腰痛を公務上の疾患として認定するものとしている。

(二) 慢性発症により腰椎分離症や分離すべり症に由来する腰痛症のように、公務起因性の認定基準が存在しない場合であっても、外因的な機械的ストレスとして、相当の長期間にわたって重量物を取り扱う公務や腰部に著しく負担のかかる作業態様の公務により、腰部に著しく過重な負荷が繰り返しかかるような場合には、このような労働は、発症の要因のひとつとして考えることができると解せざるを得ないし、このような過重な腰部への労働負荷により、その症状が自然的経過を超えて著しく増悪し、この増悪と労働による負荷との間に相関関係がある場合には、この発症に公務起因性があると考えるべきである。

(三) しかし、腰椎分離症や分離すべり症により、腰痛症などの症状を呈する場合、労働による負荷は、その要因となる可能性はあるが、これを確定的に肯定することができないというのが、整形外科専門家の意見である。

したがって、本件において公務起因性を肯定するに足りる医学的知見は存在しないというべきである。

3 向井の本件腰痛症は、同人の症状に照らしても、公務起因性のないことが明らかである。

本件腰痛症の診断名は、第四腰椎分離症、根性腰痛症、腰部椎間板障害であるが、向井の第四腰椎分離症は、公務に従事する以前から存在したものとみられるから、公務に起因するものではない。根性腰痛症及び腰部椎間板障害は、右腰椎分離症及びこれから発症した分離すべり症に起因する疾患であるが、右腰椎分離症に公務起因性がない以上、本件腰痛症にも、公務起因性のないことが明らかである。

(一) 本件腰痛症は、椎間板分離部の線維性組織の増殖による神経根の圧迫及びすべりによる第四、第五腰椎椎間板部による圧迫のため発症したもので、根性腰痛症と呼ばれるものである。また、第四腰椎と第五腰椎間の椎間板の軽度の狭小化(変性)がみられ、この椎間板変性による腰痛が腰部椎間板障害と診断されたものである。

したがって、本件根性腰痛症及び腰部椎間板障害は、いずれも、原告の第四腰椎分離症及びこれから発症した分離すべり症に起因するものである。

(二) 腰椎分離症は、発育期におけるスポーツを始めとする関節突起間部への繰り返しかかるストレスによる疲労骨折であるとする説が有力となっている。

向井は、高校在学中に二年間、大学在学中に一年間、サッカー部に所属して活動し、本件養護学校就職の翌年である昭和五〇年一〇月には腰椎分離症が発見されたのであるから、この第四腰椎分離症は、本件養護学校に就職する前に発症したものであり、その成因は、高校時代から大学時代にかけてのサッカーによる可能性が考えられる。

(三) したがって、向井の腰椎分離症は、公務起因性がなく、これに起因するその余の症状も公務起因性がない。

4 向井の公務内容、発症と症状の経緯からみても、本件腰痛症に公務起因性は、認められない。

(一) 向井の公務には、児童・生徒の排泄、着替え、自由遊び、学習、給食準備の介助など、前かがみ、中腰など腰部に負担のかかる姿勢で行う動作が含まれているが、これらの動作は、長時間同一姿勢の継続を強制するものではなく、断続的に行われるものにすぎない。したがって、同人の公務が、腰部に過度の負担のかかるものということはできない。

(二) 向井が昭和五八年度、五九年度で担任した学級は、同僚教員が担任した他の学級に比較して、複数の障害を併せ有する児童の比率が大きいことが認められるものの、障害の程度が、通学可能な程度のものにとどまる上、向井が担任した学級には、教務部長、部主事の教員の応援が常時あったほか、一、二年生の学級担任教員も、週二回程度午後から応援していたのであるから、向井の公務上の負担が、他の同僚教員に比較して過重であったとはいえない。

しかも、向井が昭和五九年度に担任した児童の大半は、同人が昭和五八年度も担任していた者であり、前年の指導経験が生かすことができたし、昭和六〇年度に担任した児童の大半は、相担任教員の佐藤が前々年度、前年度に担任した者であったから、向井の負担は軽減されていた。

(三) 向井の勤務時間からみても、その公務が過重とはいえない。

同人の勤務時間は、昭和五八年から昭和六一年ころまでの間、午前八時三〇分から午後五時一五分まで(土曜日は午前一二時三〇分まで)であり、担任する児童・生徒に関わるのは、昭和五八年度及び五九年度が、月曜日、火曜日、木曜日、金曜日が午後三時まで、水曜日が午後一時まで、土曜日が午前一一時二五分までであり、昭和六〇年度が、火曜日と木曜日が午後三時まで、月曜日、水曜日、金曜日が午後一時ころまで(月曜日と金曜日は高等部へ応援に行った。)、土曜日が午前一一時二五分ころまでにすぎない。そして、同人が定時を超えて午後六時ころまで勤務したこともあったようであるが、放課後の公務には、腰部に負担をかける公務内容はなかった。

また、同人は、毎年二週間の春休み、約四〇日の夏休み、約二週間の冬休みを有し、この間、自宅研修や準備作業等のため、学校で勤務する日があったとしても、児童・生徒の介助公務はない。

そのうえ、同人は、年次有給休暇及び職務専念義務免除を、昭和五八年度、昭和五九年度は各一九日、昭和六〇年度は10.5日取得している。

したがって、同人の公務は過重なものではない。

(四) 向井の本件腰痛症と同人の公務との間には相関関係が認められない。

昭和五〇年以降の同人の本件腰痛症の悪化は、同人の腰椎分離症、分離すべり症に起因するものというべきであるが、同人が休業していた間に分離すべり症は一層進行した。そして、同人は、職場復帰後、教務主任として、事務的職務に従事していた間にも、再度、腰痛症を悪化させ、脊椎固定手術を受けるに至ったことなどを考え併せれば、同人の公務による腰部への負担と症状との間には相関関係が認められない。

また、同人が、昭和五〇年四月、高等部に異動した後、同年一〇月に腰痛が再発したことからしても、向井の公務と本件腰椎分離症、本件分離すべり症との間には、相関関係が認められない。

(五) 向井は、昭和六一年二月一三日、階段途中で急に発作を起こした生徒を受け止めようとして一緒に倒れたことがあるが、その前後に症状の変化はなく、右転倒事故と同人の本件腰痛症とは無関係である。

また、同人が、同年四月二日、学生机を持ち上げようとした際、腰部に痛みを感じたことがあるとはいえ、このような動作も同人の通常の動作であるので、本件腰痛症の公務起因性を肯定する根拠とはならない。

5 向井は、身長約一八四センチメートル、体重約八〇キログラムを超える大柄な体格であり、腰部への負担が通常の体格の持ち主に比較して大きかった上、その性格が神経質で痛みに対する不安感が強いなど特別の素因を有しており、このような素因が、本件腰痛症の発症に作用したものである。また、腰椎分離症、分離すべり症に起因する症状から手術にまで至る例が非常に少ないことも考慮すれば、同人の本件腰痛症の発症は、通常生じ得ない稀な事例であり、同人の公務と相当因果関係があるものとはいえない。

四  証拠

記録中の証拠に関する目録記載のとおりであるから、これを引用する。

第三  争点に対する判断

一  前記争いのない事実に証拠(甲一、三の1ないし4、二一、二二、二八ないし三二、三三の1ないし11、三四の1ないし8、三五ないし四四、四五の1ないし11、四六、四八ないし五一、五七、乙一、二、四ないし九、一〇の1ないし3、一一ないし二四、二六ないし二八、三〇、三一、三二の1ないし16、三三、三四、三九、四六、四七、四九ないし五〇、六四、六五、六七ないし七〇、検甲一ないし一九、検乙一ないし六三、検証の結果、証人卜部秀二、同佐藤裕美、同津田耕平、同垰田和史、同米延策雄の各証言、承継前の原告向井和孝本人尋問の結果)及び弁論の全趣旨を総合すると、以下の事実が認められる。

1  向井の本件腰痛症発症の経緯(甲一、二二、二九、四五の1ないし11、乙一、二ないし七、一〇の1ないし3、一一ないし一七、二一ないし二八、三〇、三一、三二の1ないし16、三三、三四、四九、五〇、六四ないし七〇、検甲一ないし一九、検乙一ないし六三、証人佐藤裕美、同津田耕平、同垰田和史、同米延策雄の各証言、承継前の原告向井和孝本人尋問の結果、弁論の全趣旨)

(一) 昭和四九年の腰痛症発症

(1) 向井は、高校在学中の二年間及び大学(大阪教育大学)在学中の一年間サッカー部に所属して活動し、昭和四六年四月から一年間大学を休学して、精神薄弱及び視覚障害等の障害のある者の収容施設を有する彦根学園に指導員として勤務し、大学卒業後、昭和四九年四月、精神薄弱等の障害のある児童が通学する本件養護学校に教員として採用された(乙七)。

同人は、同月以前に腰痛症を発症したことはない。

(2) 同人は、同月から、本件養護学校の小学部二年生学級(児童数八名)を相担任教員一名と共に担任した。しかし、同人は、一学期の終わりころから、腰痛を訴え始め、同年一〇月には、腰痛が激しくなったため、断続的に一〇日間休み、整骨院などで治療を受け、冬休みの休養後、その症状が相当程度軽快した(乙二)。

(3) 同人は、腰痛悪化の不安を覚えたため、小学部に比べて腰への負担が少ないと考えた高等部の担当への配属を希望し、昭和五〇年四月から高等部の学級(生徒一〇名)を担任した。しかし、右学級には、IQ三五以下の重度・重複の障害生徒が九名おり、高等部の他の教員より相当負担が重かった。同人は、同年一〇月始めころから腰の痛みが激しくなり、同月一三日には両足のしびれも加わって早退を余儀なくされた(乙二ないし五)。

(4) 同人は、同月一四日、大阪市立大学医学部付属病院に通院し、同月一七日、レントゲン撮影がされ(検乙一)、結局、腰痛症、第四、第五腰椎分離症と診断された(乙二)。同人は、右症状により、同日から同年一二月一〇日まで休業した。

(5) 同人は、昭和四九年一〇月発症の右腰痛症について、被告に対し、昭和五〇年一二月一日付け公務災害の認定請求を行い、大阪府教育委員会も、被告に対し、右腰痛症が公務上の災害と認められる旨の意見を副申した(乙四)。

(6) 被告は、昭和五二年一二月二六日、右腰痛症につき、「療養の範囲は、急性症状の消退するまでの間とする。」との限定を付して、公務上の災害に認定した(乙一三)。

(二) 本件腰痛症発症に至る経緯

(1) 向井は、職場復帰後、それまで担当していた体育の指導担当を解かれ、音楽の指導を担当するなどの軽減措置を受け、高等部の担任を継続したが、その後、腰痛症について通院、治療を受けることはなかった。

(2) 同人は、昭和五七年四月から昭和五八年三月まで京都教育大学の特殊教育専門科に内地留学した後、同年四月から再び本件養護学校に勤務した。

当時、同人が取得した高等学校臨時教員免許状の期限が経過したため、同人が高等部を担当することが問題とされ、大阪府議会でも、高等部を担当する教員の免許問題が取り上げられたこともあって、同人は、小学部五年生の学級を担任することになった。

(3) 同人は、昭和五九年四月から、前年度に担任した学級(六年生に進級)を引き継き担任したが、同年九月ころ、再び腰痛がひどくなって、本件養護学校の整形外科の校医をする津田医師の治療を受け、津田医院へ通院した。同医師は、レントゲン検査の結果、同人を第四腰椎分離症と診断した。同人は、同年九月から昭和六〇年三月ころまで、津田医院に通院し、主として、電気治療、湿布などの保存的治療を受けた。なお、同人は、同年二月一二日から、津田医師の指示によりコルセットを常時着用するようになった。

(4) 同人は、同年四月から、小学部の三年生を担当したが、同年一二月末ころから左足にしびれを感じるようになり、昭和六一年二月三日から、再び津田医院へ通院したが、左足のしびれが恒常的になり、同年三月半ばころからじっと座っていられなくなり、痛みも左腰を中心に激しくなった。

(5) 向井は、同年二月一三日午後二時一五分ころ、障害を有する児童(身長132.6センチメートル、体重37.5キログラム)の手を引きながら階段を降りていたところ、右児童が、下から五、六段目のところで突然発作を起こして前のめりに倒れそうになったため、右児童を抱えようとして、一緒に倒れこみ、腰を階段に打ちつけ、痛みが強いため約一〇分間座りこんだ。

(6) 同医師は、同年三月までの向井の症状について、一進一退の状態が継続していたと診断しているが(乙二三)、向井は、同年三月半ばころからじっと座っていられなくなり、痛みも左腰を中心に激しくなった。

(7) 同人は、同年四月、学級担任を断念し、児童・生徒と直接接触する仕事がなく、事務的な職務を行う教務主任となった。同人は、同月二日、養護訓練室の倉庫の整理作業のため、同僚教員十数名と共に、平均台二台、学生机五個、大型木製積木約二〇〇個、鉄製遊具の脚四本を運んだが、トランポリンの鉄製の脚(重量約一二キログラム)を運んだ際、腰部に痛みが生じ、しゃがみこんで休憩した。その後、同人は、同日午後二時ころ、学生机(重量約八キログラム)を持ち上げようとして、体をひねったところ、腰部に激痛が起こり、座りこんだ。同人は、落ち着いたところで、職員室に帰り、休んでいたが、痛みが治まらないため、同月四日、津田医院で受診したが、同医師は、注射、理学療法、投薬で経過を観察することとした。

津田医師は、同月七日、向井の疾病を、第四腰椎分離症、根性腰痛症、腰部椎間板障害と診断した(乙二一、二二)。

(8) 向井は、その後も、妻の送り迎えを受けて通勤していたが、腰のしびれや腰痛が耐えられない状態となったため、同月八日から休業した。

(三) 本件腰痛症発症後の経緯

(1) 向井は、同月八日から同年六月二一日まで自宅療養により、安静加療した後、同月二二日、津田医院へ入院した。同人は、硬膜外ブロック注射などの治療を受け、しびれやつっぱり感が残ったが、同年七月九日ころから痛みも徐々に和らいだため、同年八月一五日に退院し、その後通院を継続していたが、再びつっぱり感としびれがひどくなったため、昭和六二年一月五日から二六日まで津田医院に再入院した(乙三二の1ないし13)。

(2) 同人は、その後、津田医院への通院を継続する一方、国立南大阪病院へも通院した後、同年三月九日、教務主任へ復職した(乙三二の13ないし15)。

(3) 同人は、昭和六三年六月六日、腰痛や足のしびれが激しくなったため再度休業し、平成元年五月二四日、大阪医大病院に入院し、同年六月一六日、脊椎固定手術を受け、同年八月二一日に退院して、平成二年三月一八日付けで復職した。

(四) 向井の身体条件

向井は、身長約一八四センチメートル、体重八〇キログラムであった。

2  向井の職務内容(甲三の1ないし4、二一、二二、二八、三〇ないし三二、三三の1ないし11、三四の1ないし8、三五ないし四四、四五の1ないし11、四六、四八ないし五一、乙四ないし一〇、一六ないし二〇、七二ないし七五、検甲一ないし一九、証人卜部秀二、同佐藤裕美の各証言、承継前の原告向井和孝本人尋問の結果、検証の結果、弁論の全趣旨)

(一) 向井の勤務時間は、昭和五八年四月から昭和六一年三月までの間、午前八時三〇分から午後五時一五分まで(土曜日は午前一二時三〇分まで)であった。同人は、放課後も、部会などの会議、研修、教材作りなどにより、通常学校を離れるのは、午後六時過ぎであった。

そして、同人が担当児童・生徒に接して公務を行うのは、昭和五八年度及び五九年度では、月曜日、火曜日、木曜日、金曜日が午後三時まで、水曜日が午後一時まで、土曜日が午前一一時二五分までであり、昭和六〇年度では、火曜日と木曜日が午後三時まで、月曜日、水曜日、金曜日が午後一時ころまで(月曜日と金曜日は高等部へ応援に行った。)、土曜日が午前一一時二五分ころまでであった(乙四二、証人佐藤裕美の証言)。

(二) 昭和五八、五九年当時の同人の平均的な一日の勤務内容は以下のとおりであり、右勤務内容は、昭和六〇年度の勤務内容とほぼ同一であった。また、同人の昭和四九年当時の勤務内容ともおおむね同じであった(ただし、昭和四九年には、土曜日の生徒の下校時刻が一一時であった)。

(1) 午前八時三〇分、出勤し、同四〇分に職員朝礼を実施する。

(2) 同四五分、児童がバスで登校する。児童を玄関から教室まで連れて行くが、児童の中には、教室以外の場所へ行こうとする者もおり、このような児童を引っ張ったり、引き戻したりする。

(3) 教室に着くと、児童の排便、排尿、着替えの介助、連絡帳の整理などを行う。排泄と着替えには、向井の全面的な介助が必要である。介助中も、他の児童が教室から飛び出すなどの行動に出るため、目を離せない。

(4) 午前九時二〇分、朝の会を行い、当日の予定について説明し、ラジオ体操をするため、教室から中庭に移動する。この際、児童の靴の履き替えについても指導、介助する。

(5) 同三〇分ころから中庭でラジオ体操をした後、中庭を中心に運動場などで自由遊びを行わせる。

児童の所在を常に確認した上、中庭から出ようとする児童を押したり、引っ張ったりして、中庭に戻す。

(6) 午前一〇時ころから学習準備。教材などを運び、児童の靴の履き替え、排尿、排便の介助も行う。

(7) 同二〇分ころから、午前の学習として、全校朝礼、図工、体育、音楽、グループ学習、歩行訓練などを行う。

全校朝礼(週一回)の場合、ゲームが多く、児童の手を引っ張って走ることが多い。

図工の場合(週二時限)、子供に手を添えるため、中腰になることが多く、机上作業のときにはしゃがむことが多い。

体育の場合(週二時限)、重症の児童を押し上げたり、引っ張ったりすることが常時ある。向井は、学年の体育担当であったため、跳び箱、マットなどの用具運搬なども行った。

音楽の場合(週二時限)、楽器演奏のほか、児童に全身を動かして表現させるため、重症の児童について介護が必要となる。

グループ学習(週二時限)の場合、自閉性の障害のある子について、一対一の介護指導が必要となった。

歩行訓練の場合(週一回)、児童を引っ張ったり、押し上げたりして、山道の上り下りをさせたり、遠距離訓練(往復約六キロメートル)のときには、児童を引っ張るようにして早足歩行をさせる。

(8) 学習後、児童を移動させ、午前一一時二五分ころから、給食準備をする。配膳台が低く、給食準備をする児童を介助する際、中腰の姿勢になることが多い。

(9) 同四〇分ころから給食。食事中、児童に声をかけたり、介助しながら、児童の椅子に座って自分も食事をする。食後は、歯磨き、排泄の介助をするほか、後片付け、掃除、連絡帳の記入をする。

(10) 午後一時ころから午後の学習をするが、その内容は、午前の学習と同様である。

(11) 午後二時二〇分ころから、児童を移動させ、その着替え、排泄の介助などを行う。

(12) 同五〇分ころ終わりの会を行った後、児童は下校する。

(13) 放課後、部会、学年会などの会議、研修、教材作りなどをするほか、運動会の前は競技用の道具作りや学習などの準備をすることもあった。

(三) 向井は、前記の公務中、児童を移動させる行為、排便、排尿、着替えなどの介助、遊び、学習、給食、清掃の際の個別の児童の監督介助などは、一二〇から一四〇センチメートルの身長の児童と目の高さを同じくしたり、その行動を適切に介助するには、中腰、前かがみの姿勢で行わざるを得ず、児童の中には、教師の指示を十分に理解しなかったり、その指示に全く従わずに、時にはわざと失禁するような者もいたため、その腰部に負担をかけるこのような姿勢を長時間持続したり、このような姿勢のまま前記のような作業をしたり、重心移動等を行うことを長時間断続的に強いられた。児童との遊びでは、抱き上げる、揺さぶる、おんぶするなど腰部に負担をかける動作が多かった。

また、排便の介護は、児童各自につき一日一回程度あるが、排便中の約五分から約一五分の間、教師も中腰で児童を支えることが必要な場合も少なくなかった。

(四) 向井の担当した小学部の児童は、高等部の生徒に比較すると、身長が低いため、向井が、児童と同じ目の高さとなるため、前かがみ、中腰など腰部に負担をかける姿勢を長時間強いられることが多かった。しかも、食事、移動、着替え、排便、排尿などすべての面で自立できず、教員の介助を常時必要とした上、多動性に富み、突発的に問題行動に出ることも多く、他の児童との関係を形成する上でも未熟であるため、教員が児童と共に動き回り、常時介護指導する必要性が高く、向井は、始業から児童の下校までの間の相当部分を、前かがみ、中腰などの腰部へ負担をかける姿勢で過ごすことを強いられ、このような姿勢のまま、前記の介護や指導を行うことを強いられた。この間、向井は、児童の体重を支える、児童を抱くなどの作業もしたり、右姿勢のまま重心を移動することも多く、また、児童との遊びの際には、抱き上げる、揺さぶる、おんぶするなど腰部に負担をかける行動をすることが多かった。その上、小学部では、机、椅子、配膳台、流し、ロッカーなどすべて児童の身長に合わせた大きさの設備が設置されているため、向井が、腰部に負担をかける姿勢を強いられる機会も多くなった。そして、高等部では、トイレが教室外にあり、教員は、広い空間を利用して、生徒の排泄を介助することができたのに対し、小学部のトイレは、教室内に設置され、狭いため、教員は児童の排便、排尿を介助するためかなり無理な姿勢を強いられることになった。

このように、向井の本件養護学校小学部における公務は、高等部における公務よりも、腰部に多くの負担をかけるものであった。

(五) 向井は、昭和五八年四月から昭和五九年三月まで、小学部五年生の学級を女性の相担任教員と共に担任した。右学級の児童六名は、脳性まひ(男子)、自閉的傾向(男子)、ダウン症、心室中隔欠損症(男子)、自閉的傾向、てんかん(男子)、自閉的傾向、そううつ症(男子)、僧帽弁閉鎖不全症、左腎欠損(女子)であり、いずれも重度の障害があったため、同人は、その指導、介助などのために中腰、前かがみなどの腰部に負担をかける姿勢を長時間固定したり、このような姿勢のまま前記のような作業をしたり、重心移動を行うことを特に頻繁に強いられることになった。

(六) 前記の児童六名は、昭和五九年四月から六年生に進級し、引き続き昭和六〇年三月まで向井が担任した。

その際、前記の女性教員に代わり、二〇才代の男性教員が相担任となったが、同人が昭和五九年五月ころ退職したため、臨時講師の女性教員が相担任となった。

しかし、右教員は、養護学校における勤務の経験がなかった上、向井のみが各児童の状況を前年から把握していたため、困難な児童に対する介助、指導は、専ら同人が行うことになり、その結果、同人は、前年にも増して中腰、前かがみなどの腰部に負担をかける姿勢をとる時間が長くなり、このような姿勢のまま前記のような作業をしたり、重心移動を行うことを特に頻繁に強いられることになった。

(七) 昭和六〇年一月八日、向井の担任する学級に、脳性まひ(軽度左方不全まひ)、てんかん、二分脊椎の女子の児童が転入した。右児童は、他の児童に比較しても障害が特に重く、他の児童と行動が合わず、偏食が多くて給食指導も困難を極め、また、てんかんの発作が発症し、脱力して倒れることが頻発したため、向井は、常時、中腰の姿勢で、右児童の日常の生活、学習全般を介助せざるを得ず、また、移動やマラソン指導などの際には、常時中腰で体重をかけて後ろから押したり、手を引っ張る必要があり、それでも、嫌がって座りこむことが多かった。

(八) 向井は、同年四月から、佐藤裕美と共に小学部の三年生を担任した。佐藤は、この学級を一年生の時から引き続き担任していた。向井が担任する児童は、当初五名であったが、同年六月と八月及び翌六一年二月に各一名が転入し、計八名となった。

向井が当初から担任した児童五名中、三名が自閉性の障害、他がダウン症と脊椎側弯の障害を有する児童であり、自閉性の障害を有する児童については、教師との適切な関係を形成することが困難なため、向井及び佐藤は、一対一で指導をすることが必要とされ、他の児童の場合も、歯磨き、排便、食事指導、衣服の着脱など日常生活の全般にわたり、向井らの介護が必要であった。

そして、昭和六〇年六月と八月の転入生は、いずれも自閉性の障害のある児童であり、右三名の児童と同様の介護を必要とした。そして、翌六一年二月の転入生は、脳腫瘍の術後でてんかんを伴う重度の障害のある児童であり、ほかの児童と比較しても極めて障害が重く、ほかの児童と行動が合わず、指導どおりの行動をしない上、偏食があり、発作を起こして、脱力して倒れることが頻発し、座り込んで、向井が体重をかけて動かさなければならないことが、日常生活全般においてみられた。そのため、向井及び佐藤は、右児童と常時行動を共にし、介護する必要があった。そのため、佐藤及び右児童を四年、五年、六年で担任した教師も腰痛を訴えるようになった。

(九) 昭和五八年度、五九年度、向井は、相担任教員のほか、教務部長や部主事の教員の応援を随時受けたほか、一、二年生学級の担任教員から週二回程度応援を受けた。

しかし、このような応援は、五、六年生の学級は、授業時間が多いため、すべての小学部高学年の担当教員に対して行われたものである。

(一〇) 向井は、この間、毎年二週間の春休み、約四〇日の夏休み、二週間の冬休みを取っており、この間、自宅研修や準備作業等のため本件養護学校で勤務することがあったが、児童・生徒の介助はなかった。また、同人は、年次有給休暇及び職務専念義務免除を、昭和五八年度に一九日(甲三四の一)、昭和五九年度に一九日(甲三四の3)、昭和六〇年度に10.5日取得した(甲三四の7)。

3  労働省労働基準局長による職場における腰痛予防対策指針について(甲四八、五七)

(一) 労働省労働基準局長は、職場における腰痛予防対策について、昭和四八年七月一〇日付け基発第五〇三号「職場における腰痛の予防について」及び昭和五〇年二月一二日付け基発第七一号「重症心身障害児施設における腰痛の予防について」の各通達(以下「旧通達」という。)を発して、腰痛予防対策を示し、その指導の指針としていたが、平成六年九月六日、新たに、「職場における腰痛予防策の推進について」平成六年九月六日付け基発第五四七号(以下、「新通達」という。甲五七)を発し、旧通達を廃止した。

(二) 新通達は、腰痛の発生が比較的多い五種類の作業の一つとして、重症心身障害児施設等におけ介護作業を挙げ、右施設等で、入所児、入所者等の介護を行わせる場合には、姿勢の固定、中腰で行う作業や重心移動等の繰り返し、重量の負荷等により、労働者に対して腰部に静的又は動的に加重な負担が持続的に、又は反復して加わることがあり、これが腰痛の大きな原因になるので、作業姿勢、動作、作業標準、介護者の適正配置、施設及び設備の構造等の改善などの点で対策を講じて、作業負担の軽減を図るべきであるとする。

二  地方公務員災害補償法にいう、職員が公務上負傷し、若しくは疾病にかかった場合とは、負傷又は疾病と公務との間に条件的因果関係があるというだけでは足りず、これらの間にいわゆる相当因果関係が存在することが認められなければならない(最高裁昭和五一年行ツ第一一号同五一年一一月一二日第二小法廷判決・裁判集民事一一九号一八九頁参照)。

そして、右因果関係の立証は、一点の疑義も許されない自然科学的証明ではなく、経験則に照らして全証拠を総合検討し、特定の事実が特定の結果発生を招来した関係を是認し得る程度の高度の蓋然性を証明することであり、その立証の程度は、通常人が疑いを差し挟まない程度の真実の確信を持ち得るものであることを必要とし、かつそれで足りるものというべきである(最高裁昭和四八年オ第五一七号同五〇年一〇月二四日第二小法廷判決・民集二九巻九号一四一七頁参照)。

三  本件腰痛症の発症と向井の公務との間の相当因果関係の有無について判断する。

1  本件腰痛症の原因

(一) 前記認定の事実並びに甲第五五号証、乙第二号証、第一二号証、第五〇号証、第六五号証、第六七ないし七〇号証、検乙第一ないし六三号証、証人米延策雄、同津田耕平の各証言によれば、向井は、昭和五〇年一〇月一七日、大阪市立大学付属病院受診時、第四、第五腰椎分離症と診断されたこと(乙二、一二)、同人は、昭和六一年二月三日の検査所見などに基づき、津田医師により、第四腰椎分離症、四番と五番の椎間板の分離すべり症、根性腰痛症と診断され(乙五〇)、同年四月七日、第四腰椎分離症、根性腰痛症、腰部椎間板障害という診断書が作成されたこと(乙二一)、向井のレントゲン写真中、昭和五〇年一〇月一七日撮影分と昭和六一年二月三日撮影分とを比較すると、前者より後者の方が、四番と五番の椎間の間隔が狭くなる椎間板狭小化の変成が生じ、右狭小化が、昭和六三年七月六日撮影のレントゲン写真ではさらに進行していること(乙六四、証人米延策雄の証言)、津田医師により、すべりの幅が、昭和六一年二月三日当時、約二ミリメートル、同年一二月一七日当時、約七ミリメートルと診断されたこと(乙五〇)、向井は、平成元年五月二四日から、大阪医科大学に入院し、同年六月一六日に脊椎固定手術を受けた際の検査結果及び所見によれば、第四腰椎分離症が認められ、分離部で線維性の組織が大きくなって神経を圧迫しており、また、本件分離すべり症が発症し、すべりが進行して、椎間板狭小化が生じて、神経根が圧迫され、周囲の神経根に炎症が生じていたこと(乙六七ないし七〇、検乙一三ないし六二、証人米延策雄の証言)が認められる。

(二) (一)判示の症状の経過及び証拠を総合すると、昭和五九年以降に発症した本件腰痛症は、昭和五〇年当時既に発症していた第四腰椎分離症(以下「本件腰椎分離症」という。)が、その後本件腰痛症発症までの間に、腰椎すべりに移行して分離すべり症(以下「本件分離すべり症」という。)を発症し、右分離部における線維性組織が増殖して神経を圧迫、刺激したり、すべりが進行し、第四、第五腰椎椎間板部に狭小化の変成(以下「本件椎間板変成」という。)が生じて、神経根が圧迫され、周囲の神経根に炎症が生じるなど、その症状が増悪した結果、発症したものであることが認められる(被告も、本件腰痛症が、本件腰椎分離症及び本件分離すべり症に起因するものであることを認める)。

(三) (一)掲記の証拠、甲第四五号証の1ないし11、第四六ないし四八号証、第五六ないし五九号証及び証人垰田和史の証言によれば、腰椎分離症及び分離すべり症の発症原因は、医学的に完全に解明されていない点があり、先天的な要因により発症するという見解、発育期における関節突起部への繰り返し作用するストレスによる疲労骨折により発症するという見解もあるが、腰椎下部に物理的な力が繰り返し作用し続けると、腰椎分離症が発症し、これが腰椎すべりに移行して分離すべり症が発症することが少なくないこと、腰椎分離症の基礎疾患のある場合、さらに腰椎下部に物理的な力が繰り返し作用し続けると、右分離部における線維性組織の増殖が生じるほか、分離すべり症が発症して、すべりが進行し、椎間板の変成が生ずるなどの症状が、自然的経過を超えて急速に進行し、その結果、右線維性組織の増殖による神経の圧迫、刺激、すべりの拡大、椎間板変成の進行による神経根の圧迫、周囲の神経根の炎症などの症状が自然的経過を超えて著しく増悪して、腰痛症が発症し、その後も症状が増悪することが少なくないこと(証人米延策雄も、重労働が腰椎分離症、分離すべり症の発症原因となり得ること、腰椎分離症が発症した後、更に腰部に負担がかかり、ストレスが作用した場合、分離部の線維組織の増殖が増すといわれていること、労働による負荷が、椎間板変成に影響する因子のひとつとなる可能性が高いことを認める証言をする。)、前かがみ、中腰などの腰部に負担をかける姿勢を長時間継続したり、このような姿勢のまま、作業や重心移動を行ったり、前屈して中腰の姿勢になるような動作を反復することによる腰部の負担も、前記のような機序で、基礎疾患たる腰椎分離症をその自然的経緯を超えて著しく増悪させ、腰痛症を発症させることがあることが認められる。

(四)(1) 原告は、本件腰痛症は、腰椎分離症、分離すべり症だけでなく、筋・筋膜性腰痛が複合して発症したものである旨主張し、垰田和史の証言中には、これに沿う供述部分がある。

(2) しかし、証人米延策雄は、筋・筋膜性腰痛というのは、病理的な背景が明らかにされた疾患ではなく、すべての整形外科医が認める病名とはいえない上、これを認める見解を採る場合でも、特定の筋膜、神経の出ているところを抑えると圧痛があるなど特定の症状が認められるときに筋・筋膜性腰痛という診断をするが、向井の場合、その診療録には、このような圧痛点があるという記載がされていないのに対し、本件腰痛症は、腰椎分離症及び分離すべり症に由来する症状としてすべて説明できるので、筋・筋膜性腰痛によると診断できない旨証言し、右証言に格別不合理な点は認められないこと、証人垰田和史は、向井を直接診断したものではないのに対し、同人を継続的に長期間直接診断していた津田医師も、本件腰痛症が腰椎分離症、分離すべり症に起因するものであるという診断をしていることに照らすと、証人垰田和史の証言は採用することができず、ほかに原告の右主張を認めるに足りる証拠はない。

2  本件腰痛症と公務との間の相当因果関係

(一)  前記認定の事実によれば、本件腰痛症が発症し、悪化したのは、昭和五九年九月以降であるところ、本件腰痛症は、向井が当時既にり患していた本件腰椎分離症について、分離部における線維性組織の増殖による神経の圧迫、刺激や、本件分離すべり症へ移行して、すべりが拡大し、本件椎間板変成も進行して、神経根が圧迫され、周囲の神経根の炎症が生じるなど、その症状が増悪したことにより発症したものであること、腰椎分離症の基礎疾患のある者が、前かがみ、中腰などの腰部に負担をかける姿勢を長時間継続したり、このような姿勢のまま、作業や重心移動を行ったり、前屈して中腰の姿勢になるような動作を反復する行為により、その腰椎下部に物理的な力を繰り返し作用させ続けた場合、右分離部における線維性組織の増殖が生じるほか、分離すべり症が発症し、すべりが進行し、椎間板の変成が生ずるなどの症状が、自然的経過を超えて急速に進行し、その結果、右線維性組織の増殖による神経の圧迫、刺激、すべりの拡大、椎間板変成の進行による神経根の圧迫、周囲の神経根の炎症などの症状が自然的経過を超えて著しく増悪して、腰痛症が発症し、その後も症状が更に増悪することが少なくないことが認められる。

(二)(1)  前記認定の事実によれば、向井の本件養護学校小学部における職務は、児童を職員室へ連れて行く行為、児童の排便、排尿、着替えなどの介助、学習や給食の際の個別の児童の監督介助などについて、一二〇から一四〇センチメートルの身長の児童と目の高さを同じくし、その行動を適切に介助するため、その勤務時間の相当部分について、前かがみ、中腰など腰部に負担をかける姿勢を長時間継続したり、このような姿勢のまま、作業や重心移動を行ったり、前屈して中腰の姿勢になるような動作を反復するなどの行為を強いられており、これらの行為は、日常生活における行動など公務外の行為に比較して、格段に大きな力を同人の腰部に作用させるものであったことが認められる。

(2)  そして、前記認定の事実によれば、昭和五八年四月から昭和六〇年三月まで向井が担当した小学部の学級(昭和五九年三月まで五年生、同年四月から六年生)の児童六名は、脳性まひ、ダウン症、心臓疾患などの重度の障害のある児童であった上(向井が昭和五八年度、五九年度で担任した児童が、他のクラスを担任する同僚教員が担任する児童に比較して他の障害を併せ有する児童の比率が高いことは、被告も認める。)、昭和六〇年一月八日から右学級に転入した児童は、脳性まひ(軽度左方不全まひ)、てんかん、二分脊椎などの障害があり、他の児童に比較しても障害が特に重く、他の児童と行動が合わず、偏食が多く給食指導も困難を極め、また、てんかんの発作が発症し、脱力して倒れることが頻発したため、向井が、常時、中腰の姿勢で、右児童の日常の生活、学習全般を介助せざるを得なかったこと、同人が昭和六〇年四月から翌六一年三月まで担任した小学部三年生は、八名であり(内三名が途中転入)、内六名(内三名が転入生)が自閉性の障害、他がダウン症と脊椎側弯の障害を有し、自閉性の障害を有する児童については、一対一で指導をすることが必要とされ、他の児童の場合も、歯磨き、排便、食事指導、衣服の着脱など日常生活の全般にわたり、向井らの介護が必要であった上、転入生の一人は脳腫瘍の術後でてんかんを伴う重度の障害のある児童であり、他の児童と比較しても極めて障害が重く、他の児童と行動が合わず、指導どおりの行動をしない上、偏食があり、発作を起こして、脱力して倒れることが頻発し、座り込んで教師が体重を掛けて動かさなければならないことが、日常生活全般にみられ、同人を四年生、五年生、六年生で担任した教員がいずれも腰痛を訴えていたこと、以上の結果、向井の昭和五八年四月から昭和六一年三月までの公務内容は、前かがみ、中腰など腰部に負担をかける姿勢を長時間継続したり、このような姿勢のまま、作業や重心移動を行ったり、前屈して中腰の姿勢になるような動作を反復するなどの行為を、他の同僚教員に比較しても、特に頻繁に強いるものであったことが認められ、右事実を総合すると、同人が、昭和五八、五九年度、教務部長、部主事の教員及び一、二年生学級担任の他の教員から応援を受けたこと、同人の昭和五九年度に担任した学級の児童の大半が、昭和五八年度に引き続き担任した者であること、同人が毎年二週間の春休み、約四〇日の夏休み、二週間の冬休みを取り、この間、生徒の介助公務がなかったこと、同人が年次有給休暇及び職務専念義務免除を、昭和五八年度、昭和五九年度に各一九日、昭和六〇年度に10.5日取得したことを斟酌しても、この時期の同人の公務内容が、その腰部に著しく過重な負担をかけるものであり、精神薄弱等の障害のある児童が通学する養護学校の教員の公務としても、著しく過重なものであったことが認められる。

(3)  以上の事実に、この期間、向井が、日常生活など公務以外において、右公務と同程度又はそれ以上の力を腰部に作用させる行動をしていたことを認めるに足りないこと、労働省労働基準局長の新通達によっても、重症心身障害児施設等における介護作業は、腰痛の発生が比較的多い五種類の作業の一つであり、入所児、入所者等の介護作業では、姿勢の固定、中腰で行う作業や重心移動等の繰り返し、重量の負荷等により、労働者に対して腰部に静的又は動的に加重な負担か持続的に、又は反復して加わることがあり、これが腰痛の大きな原因になるので、作業姿勢、動作、作業標準、介護者の適正配置、施設及び設備の構造等の改善などの点で対策を講じて、作業負担の軽減を図るべきであるとされていることを考え併せると、向井の右期間内の公務は、本件腰椎分離症の基礎疾患を、(一)判示の機序により、その自然的経過を超えて著しく増悪させ、本件腰痛症を発症させ、その後症状を更に増悪させる原因たり得る負担を腰部にかける可能性が多分にあるものであったことが認められる。

(三)  前記認定の事実によれば、向井は、昭和四九年四月に本件養護学校に採用されるまで、腰痛を発症したことがなかったこと、同人は、同年四月小学部二年生の学級(八名)を担任するや、一学期の終わりころから、腰痛を訴え始め、右症状が、同年一〇月の治療と冬休みに休養した後、相当程度軽快したものの、翌五〇年一〇月八日ころから腰痛が再び激化して、両足のしびれも加わり、同月大阪市立大学医学部付属病院において「腰痛症、第四、第五腰椎分離症」と診断されたこと、同人が、同年一二月一〇日まで休業し、その後、高等部の担任を継続し、国内留学するなどしたが、昭和五八年四月に再び小学部の学級を担当するまでの間、腰痛により通院をすることなく推移したこと、同人が、同年四月再び小学部の学級を担任するや、翌五九年九月から本件腰痛症が発症し、次第に悪化して昭和六一年四月に休職したことが認められ、右認定の症状の経緯に、本件養護学校の小学部を担当する教員の公務内容は、高等部を担当する教員より、相当大きな負担を腰部にかけるものであることを考え併せると、原告の腰痛症は、おおむね小学部の公務を契機に発症したものといえる。

その上、以上の事実に、昭和四九年一〇月に発症した右腰痛症について、大阪府教育委員会は、右腰痛症が公務上の災害と認められる旨の意見を副申し、昭和五二年一二月二六日、限定付きであるとはいえ、公務認定がされ、右腰痛症の公務起因性を肯定した右公務認定が誤りであることを認めるに足りる証拠がないこと(証人米延策雄の証言によっても、公務起因性を肯定した右判断に不合理な点があるとは、認められない。)を考え併せると、本件腰痛症が、同人の小学部における公務と無関係に発症したとみることは困難である。

(四)  前記認定の事実によれば、同人は、昭和六一年二月一三日午後二時一五分ころ、児童(身長132.6センチメートル、体重37.5キログラム)の手を引きながら階段を降りていたところ、右児童が、下から五、六段目のところで突然発作を起こし、前のめりに倒れそうになったため、右児童を抱えようとして、一緒に倒れこみ、腰を階段に打ちつけ、痛みが強いため約一〇分間座りこんだこと、同人は、同年四月二日、養護訓練室の倉庫の整理作業のため、同僚教員十数名と共に平均台二台、学生机五個、大型木製積木約二〇〇個、鉄製遊具脚四本を運んだが、トランポリンの鉄製の脚(重量約一二キログラム)を運んだ際、腰部に痛みが生じ、しゃがみこんで休憩した後、学生机(重量約八キログラム)を持ち上げようとして、体をひねったところ、腰部に激痛が起こり、立っていることが困難な状態となり、同月八日から休業したことが認められる。

そして、前記認定のように、津田医師が向井の症状が右転倒事故後も同年三月ころまで一進一退の状態が継続していたと診断していることを考え併せると、右各事故中、転倒事故については、これを契機に同人の症状が著しく増悪したとは認めるに足りないものの、少なくとも、同年四月二日の事故については、これを契機に本件腰痛症が一層増悪したことが認められる。

(五)  (一)ないし(四)判示の点及び証人津田耕平の証言を総合すると、本件腰痛症は、同人が昭和五八年四月以降に従事した公務が相対的に有力な原因となって、同人の基礎疾患である本件腰椎分離症について、分離部の線維組織の増殖による神経の圧迫、刺激を生じたり、本件分離すべり症へ移行し、すべりの拡大、本件椎間板変成が進行し、それによる神経根の圧迫や周囲の神経根の炎症を生ずるなど、その症状が自然的経過を超えて著しく増悪した結果、発症したものと認められる。

したがって、本件腰痛症は、同人の右公務が相対的に有力な原因となって、同人の右基礎疾患がその自然的経過を超えて著しく増悪した結果、発症したものであり、右発症と右公務との間には、相当因果関係があるものと認められる。

3  被告の主張に対する検討

(一)(1) 被告は、向井の本件腰椎分離症が、同人が高校、大学在学中にサッカーを行ったことにより発症したことが考えられる旨主張し、乙第六四号証(米延策雄医師作成の意見書)には、腰椎分離症の発症原因として、発育期における関節突起部への繰り返しのストレスが疲労骨折を生じさせることで発生するという見解があり、向井が高校生のときに二年間、大学生のときに一年間サッカー部に所属して活動を行っていたことからすると、これに関連して腰椎分離症が発症した可能性がある旨の記載があり、乙第五七、五八号証、第六〇号証、第六二号証、第七一号証中には、腰椎分離症がスポーツ愛好者やスポーツ選手に多く発見される旨の記載がある。

(2) しかし、向井の本件腰椎分離症が、同人の高校、大学時代のサッカーにより生じたことを直接認定し得る証拠がないこと、前判示のように、同人について、昭和四九年四月、本件養護学校に採用される以前から腰痛が発症したとは認められないこと、昭和五〇年当時の同人の腰痛について、昭和五二年一二月に公務認定がされており、右公務認定に誤りがあることを認めるに足りないことに照らせば、(1)掲記の乙号各証の記載をもって、被告の右主張事実を認めるには足りない。

のみならず、仮に本件腰椎分離症が同人のスポーツ活動により発症したものであったとしても、同人の公務により、本件腰椎分離症が本件分離すべり症に移行した上、その症状が自然的経過を超えて著しく増悪して、本件腰痛症が発症した場合には、本件腰痛症について公務起因性が肯定されるべきであり、本件腰痛症は、同人の公務が有力な原因となって、同人の本件腰椎分離症がその自然的経過を超えて著しく増悪し、発症したことが認められることは前判示のとおりであるので、この点からも、被告の右主張は、採用できない。

(二)(1) 被告は、向井の本件分離すべり症が同人の休業中に進行し、すべりの幅が拡大したこと、同人が職場復帰後、教務主任として生徒と接触のない事務的な仕事をしていたのに再度症状が悪化したことからすれば、同人の公務と本件腰椎分離症、本件分離すべり症との間には相関関係が認められない旨主張し、同人が休業中に本件分離すべり症が更に進行し、そのすべりの幅が約二ミリメートルから約七ミリメートルに拡大したこと、同人が職場復帰後、教務主任として、腰部の負担の少ない事務的職務に従事していた間、本件腰痛症の再度悪化したことが認められることは前判示のとおりである。

(2) しかし、証人米延策雄、同津田耕平の各証言によれば、分離すべり症、椎間板変成が発症し、これらの症状が相当程度進行する前であれば、腰椎が日常生活による負荷に対して充分に対処でき、右負荷により、これらの症状が発症したり、進行することもなく、腰痛症も発症せずに推移する場合であっても、いったん、このような症状が発症し、相当程度進行した後は、腰椎が日常生活などによる負荷に耐えられず、これらの症状が発症、進行し腰痛症が増悪することが少なくないことが認められる。

そうすると、本件椎間板変成、本件分離すべり症が発症し、相当程度進行した後、休業中や腰部に負担の少ない公務従事中に本件分離すべり症が進行し、本件腰痛症が増悪したとしても、本件椎間板変成、本件分離すべり症の発症、進行と同人の公務との間の相当因果関係が認められる限り、その後の本件腰痛症の右増悪も、公務と相当因果関係のある症状の経過の一部にすぎず、これをもって、本件腰痛症と公務との間の相当因果関係を否定することはできないものというべきである。そして、公務が相対的に有力な原因となって、本件椎間板変成、本件分離すべり症が発症し、相当程度進行し、その後、被告の主張する本件腰痛症の増悪が生じたことが認められることは、前判示のとおりであるので、1の事実をもって、本件腰痛症の発症と公務との間の相当因果関係を否定すべきものではない。

(三)(1) 被告は、向井が昭和五〇年四月高等部に異動した後、同年一〇月に腰痛が発症したことからしても、向井の公務と本件腰椎分離症、本件分離すべり症の発症、進行との間には相関関係が認められない旨主張し、同人が、昭和四九年一学期の終わりころ訴え始めた腰痛が、治療と冬休みに休業した後、相当程度軽快したものの、同人が昭和五〇年四月高等部に異動した後である同年一〇月に再び激化したことが認定できることは、前判示のとおりである。

(2) しかし、右腰痛は、当初、昭和四九年一〇月小学部の勤務中に発症したものが、昭和五〇年一〇月に再び悪化したものであること、大阪府教育委員会も、右腰痛症が公務上の災害と認められる旨の意見を副申したこと、被告は、右腰痛を昭和四九年一〇月に発症したものとして公務認定しており、右公務認定が誤りであることを認めるに足りないこと、同人が、昭和五〇年四月から担当した高等部の生徒は、重度、重複の障害のある生徒が多く、同人の公務内容は、高等部を担当する他の教員と比べても加重であったこと及び2判示の事実に対比すれば、(1)の事実をもって前記の認定を覆すには足りず、ほかにこれを左右するに足りる証拠はない。

4  本件腰痛症の公務起因性

したがって、同人の公務は、本件腰痛症発症の相対的に有力な原因に当たるものというべきであり、両者の間には相当因果関係があるものと解すべきであるので、本件腰痛症の発症は、同人の公務に起因するものであるというべきである。

四  結語

以上によれば、同人の本件腰痛症の発症が公務に起因するものではないとした本件処分は、違法であり、その取消しを求める本件請求は、理由があるのでこれを認容すべきである。

(裁判長裁判官松山恒昭 裁判官大竹たかし 裁判官高木陽一)

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